野村克也 名言集

仕事に挫折したとき、組織に悩んだとき、人生に苦しんだとき… 野村克也の言葉があるじゃないか。ノムさんの人生哲学が凝縮された名言集。

テスト生から三冠王へ

ポジションは与えられるものではなく、奪い取るものである

南海のプロテストを受けた理由は、レギュラー捕手がベテランで20代が少なく、何年か経てば試合に出られるチャンスがあるチームを探したからだった。バッティングがよかった野村はプロ入り2年目で捕手から一塁手にコンバートされたが、その後なんとか捕手に戻…

実行力とは意志力のことであり、目的意識に比例する

「実行力を妨げる要因は3つある。必要性の認識がないこと。失敗の恐怖が働くこと。そしてプライドが高く、それが邪魔することである」

思い切ってやって、思い切ってクビを切られてやる

プロ1年目のオフ、テスト生だった野村は南海から解雇通告を受けた。なんとかクビだけは免れたが、プロの厳しい生存競争を勝ち残っていくためには、なりふりかまってはいられない。恥ずかしいとか、みっともないとか、怖いといった羞恥心も恐怖心もなくなっ…

環境選びは慎重すぎるくらいでいい

キャッチャーは他のポジションと違い、レギュラーのイスがひとつしかない。野村は、「出場機会が得られそうなチーム」という観点で、入団テストを受ける球団を選んだ。「もし、憧れのジャイアンツのテストを受けて入団していたら、森祇晶との正捕手争いに敗…

18歳でプロに入って、初めて褒められたのは、バッティングでも守備でもなく、手のマメだった

「おい、野村。素振りをやって一流になるんなら、みんな一流になってるよ」。ブルペンキャッチャーの役割しか与えられず、試合にも出られなかった二軍時代。先輩からの飲みの誘いを毎晩のように断り、とにかく素振りをしていた。ある日、二軍監督が選手たち…

断る度胸を持つ人間が結局、勝つんだ

南海の二軍時代、毎晩のように先輩から飲みに誘われた。野村はそれを毎晩断り、寮の庭で素振りや筋力トレーニングをやっていた。先輩たちは「野村、素振りをやって一流になるんなら、みんな一流になってるよ」と言い残して、繁華街へと繰り出して行った。「…

思い通りにならないから、人生は楽しい

南海にテスト生として入団したとき、夢に一歩近づいたと思った。しかし、あとで話を聞いてみると、球団は野村を戦力として見ておらず、練習でピッチャーの球を受けるブルペンキャッチャーとして獲ったのだと知った。野村は愕然としたが、これでは恥ずかしく…

私が、甲子園のスター選手からプロとなり、いきなり一軍に定着して30代で引退していたら、たとえ監督になっても、ここまで長く必要とされることはなかったと思う

「あらゆるレベルの選手の気持ちがよくわかること」。これが自身の一番の強みだと野村は語る。テスト生として南海に入団して二軍で下積み時代を過ごし、一軍で三冠王を獲得してチームの中心となった。その後、南海を解雇され、45歳まで現役を続けた。一番下…

テスト生としてプロ入りし、まったく期待されていなかった私がなんとか45歳まで現役を続けられたのは、一度も満足しなかったから

プロ選手である限り、そこそこの成績をあげていれば、世間一般よりずっといい生活ができる。周囲もちやほやしてくれる。「もうこれで満足だ」と思ってしまうのも不思議ではない。だが、その時点で成長は止まる。満足は成長への最大の足かせなのだ。

努力に即効性はない。でも、努力は裏切らない

努力は続けていれば、いつかは必ず実を結ぶ。テスト生から三冠王まで上り詰めた野村自身が何よりの証拠。実を結ばないのは、「努力即好結果」と期待するから。

自分は正しい努力をしているのか、毎日自分に問いかけよ

テスト生から這い上がり、3年目にレギュラー、4年目にホームラン王になった野村だが、そこから突然打てなくなった。「練習が足りないからだ」と考え、それまで以上にバットを振ったが、結果は出ない。打てなくなった原因は、相手に研究されたことにあった。…

チャレンジ精神がなくなったら、人生は終わり

まさしく野村の生き方そのもの。常に挑戦し、変化を恐れない。

野球理念や理論だけは誰にも負けないという自負がある

プロ野球界に入って50数年、プロ野球について考えてきた“誇り”が自分を支えている。

期待しているからこそ、非難や批判もするし、悪口も言う。オレにやり玉にされるのは、オレが力を認めている証拠

テスト生時代は全く無視される毎日。入団4年目、レギュラーをつかんだ時期には、鶴岡一人監督から「おまえ、ようなったな」と称賛された。中心選手になった時期はうまくいって当たり前。点を取られてベンチに戻ってくると「バカタレ!」の連発だった。「まさ…

プロとは、自分の才能だけではとうてい追いつくことのできない、恐ろしい世界

プロ野球の一員として南海に入団したときに感じたこと。レギュラー選手との差を実感した。だが、自らの不足に目を背けず、ひたむきにあきらめず頑張り続けた。

私の人生で、一番誇れるものといったら母

「あのとき、母が他界していたら、今の自分は100%なかった。小学2年のときと3年のとき、母は二度ガンに見舞われ、戦前の医学でありながら奇跡的に助かった」。「苦労しながら、病弱な体で頑張りぬいて支えてくれたから、今の私がある」。プロ野球界で選手・…

不器用な自分が“技術的限界”を感じて必死でたどり着いたのがデータを活かす道

テスト生だった野村が三冠王を獲るまで成功した理由。相手投手や捕手の配球を分析したり、16ミリカメラを使ってクセを発見したりしてデータ化した。ノート数十冊分にもなった。当時は“データ分析”という言葉はなく、“傾向”と呼んでいた。

死に物狂いで練習すればなんとかなる

野村はドラフトで南海に入団したわけではない。テスト生として入団し、二軍の試合にも出してもらえない立場だった。「契約選手が100本素振りをするなら、テスト生上がりのオレは200本振る、の精神でやってきた」。

人の3倍も4倍も努力して、死に物狂いでチャンスをつかんだ

テスト生として南海に入団。二軍の試合にすら出してもらえない立場だった。「二軍監督に目を向けさせるには、練習で目立つしかない。ここで終わらない」。

テスト生だろうと、入団してしまえばあとは実力の世界。チャンスがゼロということは絶対にない

チャンスが少ない立場だとはわかっていた。だが、マイナスの境遇を言い訳にするか、バネにするか。そこに光を見出すか。

三冠王が獲れるほどの選手になれたのは、明確な目標があったから

目標を持ち、徹底的に考え続けた結果である。「際立った野球の才能に恵まれなかった私が生き残れたのは、“母に楽をさせてやりたい、兄に恩返しをしたい”という強い意志と目標があったからこそ」。

長嶋や王は太陽の下で咲く向日葵。ボクは人の見ていないところでひっそりと咲く月見草みたいなもの。自己満足かもしれないが、そういう花もあっていいと思ってきた。数は少なくても、見に来てくれるお客さんのために咲く花があってもいい。これが私を22年間支えてきたものなのです

1975年5月22日、通算600号本塁打を打ったあとの記者会見での言葉。王貞治に遅れること1年。史上2人目となる600号を決めた。1ヶ月前から会見での言葉を考えていた野村は、自らと王・長嶋を花に例えた。自分を表す花は、故郷・京都の夕方になるとたくさん咲く…

恥をかき続けた27年間を終わってみて、「人間は、恥ずかしさという思いに比例して進歩するものだ」と、気がついた。それが「修行」。「恥ずかしい」と感じることから進歩は始まる

27年間の現役生活を振り返って。

一段階、また一段階と登っていく過程で、私は劣等感をバネにしてきた

小さいときには貧乏、プロに入ったときはテスト生、レギュラー時代は華やかなセ・リーグに対して「劣等感」を持つことで、より高みを目指した。

どうやったらライバルとの競争に勝てるか考えたとき、1日24時間の使い方の問題だ、と思った

南海にテスト入団した1年目のオフ、球団から解雇通告を受けた。「もう一年やらせてください。故郷に帰れない。クビなら南海電車に飛び込みます」と泣いて頭を下げた。球団マネージャーは根負けして契約延長が決まったという。再度クビにならないために、直後…

一日も早くレギュラーになり、高給をとって親孝行したかった

プロのなる=母親孝行をすることだった。だからこそ、レギュラーになってお金を稼ぎたかった。捕手はレギュラーが一度固定されると、その座はなかなか空かない。野村は大ファンだった巨人を断念し、正捕手が30歳以上の球団を調べて、南海と広島が該当。育成…

本音を吐くと50歳まで現役をやりたかった

「50歳で二軍に落ち、給料10万円でもいい。どうせ私は契約金ゼロ、初任給7000円で入団したんですから。最後は二軍に落ちてクビになり、これで人生ひとまわり」。

「再生工場」と言われるのは、選手たちの痛みを知っているから

野村自身、テスト入団した苦労人。ひたむきでがむしゃらに取り組み、何とか入団できた。だが入団1年でクビを言い渡され、涙ながらに何度も頭を下げて契約を延長してもらった経験もある。だから、“ここを落ちればどこにも行く場所がない”という人間の貪欲さと…

プロは技術的限界を感じてから、本当の戦いが始まるのだ

現役時代、レギュラーの座を守るために、自らに課した考え。野村は、当時まだ誰もやっていなかったデータ分析や、ピッチャーのクセを研究して相手バッテリーの配球を読むことで、技術的限界を乗り越えた。

そんなこと言ったら外される。何とかしてくれ。休めない

南海入団4年目。レギュラー獲得後すぐの試合中、捕球の際に親指の骨にヒビが入った。欠場すれば強肩の先輩たちにチャンスが回ってしまうとわかっていた。医者に頼み込み、ブリキの型を取って指にはめ、包帯で巻いて、何食わぬ顔で試合に出続けた。