満足・妥協・限定
世の中もずいぶんと幼稚な世界になってしまった。政治のこと、経済のこと、日々起こる犯罪など……。野村は、野球とは、仕事とは、人生とは、と自問自答していくことで考えが深まる「とは理論」を説いてきた。考えることを放棄していては、この「幼稚さ」の渦…
何年かにわたって2割5分前後の打率を残している打者がいたとする。1年の多くを一軍のベンチに座ることができているとすれば、おそらく安定を手に入れていると見ていいだろう。だが、この状況に満足するか、さらに上を目指すかがすべて。もし、現状維持で満足…
監督として日本シリーズを連覇することはできなかった。優勝すると、やり遂げた感覚を持ち、無意識にホッとしてしまう。新しい年を迎えても、気合が入らない。勝つのは容易いが、それを守り、勝ち続けることは非常に難しい。
プロの世界に入っただけで、満足してしまう若い選手は大勢いる。それは企業に入社した人にも当てはまることだろう。世間的に名の知られた会社や、一流と言われる企業に入ったからといって、そこはゴールではない。やっとスタートラインにつくことができたと…
成功することで人間には自信が芽生える。だが、自信はともすれば過信やうぬぼれに変わる。しかも、うまくいっているとき、調子に乗っているときは、自分が過信していること、うぬぼれていることに気づかない。あるいは気づいても、「このままで大丈夫だ」と…
「何歳だからこれはできない」。このような発想は、その人の人生の可能性を狭めることになる。
満足した瞬間に、その人の可能性は限定され、閉ざされてしまう。これを突破するには、限界をもうけないことだ。
人より努力をしたのに、結果を出せない人は多い。これは「練習をたくさんした」というところで満足しているからだ。「努力による結果」ではなく、「努力そのもの」が目的になっているのである。
プロ選手である限り、そこそこの成績をあげていれば、世間一般よりずっといい生活ができる。周囲もちやほやしてくれる。「もうこれで満足だ」と思ってしまうのも不思議ではない。だが、その時点で成長は止まる。満足は成長への最大の足かせなのだ。
ヤクルト監督時代は、ミーティングで板書したことを選手たちにノートをとらせていたが、阪神では板書が面倒で、最初から印刷したテキストを配った。これが大失敗で、選手たちの頭に何も残らなかったことから。
満足してしまえば、「このくらいやればいい」と低いレベルで妥協するようになる。妥協してしまえば、「これ以上は無理だ」と自己限定してしまう。満足が妥協を呼び、妥協が限定を呼ぶのである。そうなれば、もはや成長など期待できない。
自分をだまし、相手をだましながら、ピンチをしのぐ。「そこからは決して努力は生まれない」。
「自分はこれで精一杯だ、自分の力はもはやここまでだ」と自己限定するのは、低いレベルで「妥協」するから。壁にぶつかると「オレはこんなもんだ」とあきらめて努力しなくなる。「中途半端な選手ほど、この傾向が強い。こんな考えだから、中途半端な選手で…
選手に伝えていること。「どうせ……」と思ったとたん、現状維持どころか、人間の力は落ちていく一方。
「たいした実力もないのに自分はスターだと勘違いしている選手や、周囲から甘やかされて“これでいいんだ”と自己満足している選手」。自己満足ほどやっかいな敵はいない。
「自己限定」した自分を、周囲に認めさせる。そんな風潮は許せない。
自分を律することの厳しさ。生活面で「これくらいやればいいや」と出てしまう。「人間は習慣の動物だから、長い間そうした思考を続けていると、それが必ず仕事の面でも現れてしまう」。
「これでいい」「自分はすごい」と思った瞬間から下り坂。
「オレはこんなもん。これくらいやればいいや」と自分で限界を作る。最も楽で卑怯な考え方。
自分を限定しない。まだできる。まだ人生の最高の瞬間は来ていない。
血のにじむ努力を積み重ねながら、いまだに「満足」していない。また「成功した」と言われるのも、言うのも、好きではない。
限界を越えずに終わるのは、「ただ逃げているのと同じになる」。
慣れのすぐ近くに慢心がある。
満足したら、そこで成長は止まる。
満足が妥協を呼び、妥協が限定を呼ぶ。一流は決して、現状に満足も妥協も限定もしない。
南海から、ずっと弱小球団を率いてきて。意識改革には時間がかかるが、それをするのもリーダーの重要な仕事。
プロとは当たり前のことを当たり前にできる人間をいう。プロに、満足・妥協・限定は三大禁句。