二流・三流
世の中もずいぶんと幼稚な世界になってしまった。政治のこと、経済のこと、日々起こる犯罪など……。野村は、野球とは、仕事とは、人生とは、と自問自答していくことで考えが深まる「とは理論」を説いてきた。考えることを放棄していては、この「幼稚さ」の渦…
優れた人物は他人と協力し合うが、むやみに群れることをしない。つまらない人物ほど簡単に同調するが、真に他人と理解し合うことがない。
体罰は指導者のエゴでしかなく、暴力でしか自分の考えを伝えられない指導者に共通して言えることは、指導に対するブレない軸を持っていないということ。指導する側とされる側に必要なのは、まず愛情。
失敗したときに言い訳を探すような思考からは、努力や向上心は絶対に生まれてこない。
一流になる人間の特徴のひとつに、どんなことでも「あの人ができるなら自分もできる」と、無意識に自分にプラスの暗示をかけているという点がある。逆に、二流で終わる人間は、「自分はこれくらいできればいい」と自分の能力を限定してしまう。
貧しかったり、苦労したりしてきた人は感性が鋭いことが多い。一方で、不自由なく生きてきた人はどうしても感性が鈍いところがある。感性を磨くためには、貪欲な向上心が必要だ。
年齢を重ねたから老いるのではない。人は、理想をなくし、理想を追い求める努力をしなくなったときに老いるのである。
何でも与えられ、教えられ、「こうしなさい」と指示を出されれば、そうされるのが当たり前だと何の疑問も抱かず、自分から問題を探し出し、自主的に物事に取り組もうという気など起きるわけがない。依頼心が強ければ強いほど、感性を鈍らせ、思考能力を衰え…
変わることによって一流選手の仲間入りをする可能性よりも、変わったために失敗して、現状よりも状況が悪くなるリスクの方に意識が向くようである。つまり変わる「勇気」が持てないのだ。しかし変わらなければ人は成長しない。
自分の失敗に鈍感な人間ほど、すぐ謝る。
現場は「即戦力のピッチャーが欲しい」と要求しているのに、フロントは人気目当てで甲子園を沸かせた高校生ピッチャーを獲得にいったり、現場が足の速い野手を必要としているにもかかわらず、ろくに走れも守れもしない長距離バッターを獲ってきたりするとい…
言い訳をする選手はまず伸びない。特に、リーダーの言い訳は禁物。
鈍感な選手は同じ失敗を繰り返す。感性が鈍いから失敗しても失敗と気づけないし、たとえ失敗を自覚しても、なぜそれが起こったかを自己分析できない。
「私が見た限り、言い訳をする選手は伸びたためしがない」。
何より言い訳は聞き苦しい。聞かされている人間はたまったものではなく、その人間を軽蔑し、一緒に仕事をしたいとは思わなくなるだろう。
考え方も氏素性も異なる人間を統率し、同じ目標に向かって進ませていくためには、最低限の秩序やルールが必要。それを無視して各自が勝手に行動すれば、組織はまとまらない。当然、よい仕事もできない。
「なんとかして自分を見てもらいたい、認められたい」と願い、「そのためにはどうすればいいのか」と考えるところから、人の成長は始まる。
「褒めておだてるのは、そうしなければ自ら動こうとする意欲が引き出されないからである」。一人前になれば、褒められなくても自分の意思でさらなる高みを目指そうとする。
仕事に自信がないから、外見で注目を浴びようとする。仕事に自信があれば見た目で目立つ必要はない。
自分の感情をコントロールできるか否かは、一流と二流の分かれ目のひとつ。
満足してしまえば、「このくらいやればいい」と低いレベルで妥協するようになる。妥協してしまえば、「これ以上は無理だ」と自己限定してしまう。満足が妥協を呼び、妥協が限定を呼ぶのである。そうなれば、もはや成長など期待できない。
一流と二流を分けるもの。それは才能の多寡ではなく、伸び悩んだり、限界に突き当たったりしたときに、どういう態度をとるかだ。
一流は同じ失敗を繰り返さない。
自分をだまし、相手をだましながら、ピンチをしのぐ。「そこからは決して努力は生まれない」。
人は悪い環境にいれば、流されてしまうもの。ポジティブな空気、言葉が人を育てる。自信を与える。
低迷したチームに必ずあったのが派閥だった。王貞治もダイエー監督に就任した頃、南海時代からの派閥を一掃した。
V9時代の巨人は、まずいプレーをした選手には、味方からも容赦なく厳しいヤジが飛んだ。
プロに入るほどの素質があれば、野球に対する取り組み方や考え方次第では、そこまで行き着けるもの。
二度繰り返す者は二流、三度繰り返す者は三流。
失敗に対して潔く責任を認め、受け入れること。この強さと客観性が向上心につながり、自己変革のきっかけとなる。