2016-11-28から1日間の記事一覧
「一芸はすべての道に通じる」。だからこそ、他のことにも目を向ける。
捕手として、味方投手に何を投げさせようか苦心していた日々、「敵投手の持ち球を、敵の捕手はどう使いこなしているのか、いかなる意図でサインを出しているのか、知ることで優位に立てる」と気づいた。ライバルの立場になることで、思わぬヒントが隠されて…
「苦しいことを苦と思わない。それを楽しいと思えるほど野球が好き。苦しみも冷静に考えれば“楽しい”と思う瞬間がある」。最近「試合を楽しむ」「勝負を楽しむ」という言葉を安易に使うスポーツ選手が多いことについての苦言。「“楽しい”という言葉を間違っ…
「人前で話すことを苦手としていた私が、講演や解説を引き受けるようになったときに思ったこと」。これを機に、それまで以上に本を読んだり、試合を注意深く観察するようになった。その積み重ねが、それまで縁もゆかりもなかったヤクルトの監督就任の依頼に…
2008年6月18日の阪神戦で黒星。監督通算最多敗戦となる1454敗目を記録した。弱小球団を率いて再建してきた名将の“勲章”でもある。
形に表せない力こそが大切。それを実感できるか。
「3-2というカウントは面白い。打者は2-2まではボール球を打たないように気をつけるのに、3-2になるとストライクが来ると思い込む。選球眼のタガが緩む。ボールの誘い球につい乗ってしまう」。「ただし、打者の選球眼の分析をしっかりしておくこと」。
全力投球で真っ向勝負することだけがプロの勝負ではない。「全知全能を使ってこそ、プロの戦い。ボール球の効用を理解してこそ、名バッテリーと言える」。
捕手の条件。セオリーどおりではダメ。ときには奇策を交えないといけない。
相手打者が「いい球を見逃す」「いいバッティングをする」「誘い球に手を出してこない」。捕手はそこで「なぜ?」と考える。「一球一球が、なぜ?なぜ?の連続である。捕手は細かい情報が欲しいのだ」。
配球には、捕手の特徴、性格がよく反映されるという。
かつて指導した南海の江夏豊やヤクルトの石井一久を評して。「“打つなら打ってみやがれ”という自信満々の態度がよかった。雰囲気、強気で打者を圧倒していた」。
南海のエースとして活躍した江夏豊、江本孟紀、主砲の門田博光を評して。手がかかる子ほど可愛いもの。そして個性豊か。結果を出す才能もあふれていた。「オレはこの3人に育ててもらったと感謝している」。
大成する人の共通項に“遊び心”があると言う。「あくまでも仕事にプラスになる遊び」。
人は、他人の評価で価値が決まるもの。自分自身を絶賛していては、真の価値を見失う。
新人の頃、ハワイキャンプで門限を破って遊んでいた先輩が、監督からひんしゅくを買ったのを機に、野村が一軍での出場機会を得られるようになったことから。
プロ野球の一員として南海に入団したときに感じたこと。レギュラー選手との差を実感した。だが、自らの不足に目を背けず、ひたむきにあきらめず頑張り続けた。
「あのとき、母が他界していたら、今の自分は100%なかった。小学2年のときと3年のとき、母は二度ガンに見舞われ、戦前の医学でありながら奇跡的に助かった」。「苦労しながら、病弱な体で頑張りぬいて支えてくれたから、今の私がある」。プロ野球界で選手・…
3歳のとき父が戦死し、母子家庭で貧しい生活を強いられた幼少期だったが、母の愛情に育まれ、たくましく前向きに夢を持って成長したと自負している。大切なのは、形あるものではなく、愛情という無形のもの。
ハングリー精神が足りないと言われる現代の選手に対して。
常に弱小球団、注目度の低い球団で監督をしてきた野村が、注目度や人気が抜群に高い阪神の監督に就任したことで味わったこと。
天性と感性だけで生きる人には哲学はないと思うがゆえ、「天才に言葉はない。天才に哲学なし」とも言い切った。
プロに入るほどの素質があれば、野球に対する取り組み方や考え方次第では、そこまで行き着けるもの。
戦力が不足しているなら、点をやらないこと。守備に重点を置くこと。
テスト生だった野村が三冠王を獲るまで成功した理由。相手投手や捕手の配球を分析したり、16ミリカメラを使ってクセを発見したりしてデータ化した。ノート数十冊分にもなった。当時は“データ分析”という言葉はなく、“傾向”と呼んでいた。
野村はドラフトで南海に入団したわけではない。テスト生として入団し、二軍の試合にも出してもらえない立場だった。「契約選手が100本素振りをするなら、テスト生上がりのオレは200本振る、の精神でやってきた」。
テスト生として南海に入団。二軍の試合にすら出してもらえない立場だった。「二軍監督に目を向けさせるには、練習で目立つしかない。ここで終わらない」。
チャンスが少ない立場だとはわかっていた。だが、マイナスの境遇を言い訳にするか、バネにするか。そこに光を見出すか。
王貞治について。1973年、通算本塁打563号で王に並ばれ、74年には先に600号を更新された。憧れの巨人で活躍する王は、まぶしい存在だった。
レギュラー出場するようになった若手時代、打ち込まれてベンチに戻ると、南海・鶴岡一人監督から叱責された。配球などを質問しても「勉強せい!」と突き放されて、途方に暮れた。